2016年「佐原の山車行事」は、ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録され、ますます注目されています。下の祭礼のビラは、大正10(1921)年のものですが、「山車(近世では屋台)」が多く出され、豪勢な祭礼の様子が描かれています。屋台は「町(町内)」が所有し、その運行を担っています。その原型は、神輿の巡行に付属して成立してきたもので、忠敬翁が佐原に入婿した前後にしだいに盛んになってきました。今回は、佐原本宿の鎮守であった牛頭天王の祇園祭礼と忠敬翁との関わりをみていきたいと思います。

佐原の大祭 祇園

大正十年
『佐原町本宿八坂神社祭禮山車整列畧圖』

○「村」の祭から「町(町内)」の祭へ

牛頭天王の浜降りと祇園の祭礼は、別当である清浄院が神事を所管し、本宿組・仁井宿組の村組を管轄する村役人で豪家の伊能三郎右衛門家と、濱宿組を管轄する村役人で豪家の永澤次郎右衛門家が、祭事の運営主体でした。佐原の祇園祭礼は、前にも述べたように、本宿の鎮守であった牛頭天王の祭礼ですが、新宿の鎮守として諏訪明神が勧請され、秋祭りが盛んになる前の元禄期頃までは、新宿側でも同時に祇園祭礼が展開していたようです(伊能淳家文書「景利日記」)。

近世中期までの祇園祭礼は、村組を基盤として執行される神輿を中心としたものでしたが、18世紀の後半頃から、神輿の巡行に付属して、神輿をはやす練物の「だし」や、それを載せる「屋台」などが各「町(町内)」から出されるようになりました。移住民をかかえて成長してきた各「町(町内)」は、豪華な練物や飾り物をつくって競い合い、時には大きな紛争も引き起こすようになったのです。それは、25歳前後で若年の忠敬翁が、「名主後見」として直面した最初の大きな騒動でした。

 

○明和年間の騒動

旧来、神輿の巡行は、本橋元町から八日市場町に至る宿通りしか巡行していませんでした。行列の露払いは、八日市場町(村組では本宿組に係属)が出す獅子が長らく行列の先頭を担っていました。しかし神輿行列が全ての「町(町内)」を回るようになると、明和5(1768)年には、神輿行列の先頭をめぐって、旧来の八日市場町に対して、川通りの川岸(村組では浜宿組に係属)が千本旗の飾り物をつくって行列の先頭に立ちたいと要求して係争がはじまりました。この年は変更がありませんでしたが、紛争は翌年に持ち越されていきました。

翌明和6年、八日市場町はだしをつくって、先年の通り神輿行列の先頭を務めたいと、村組三組の村役人へ願い出ました。川岸もまた先頭に立つことを主張しましたが、6月1日の寄合を経て、三組村役人は、八日市場町のだしを一番にする、と申し渡しました。同月6日、八日市場町では、高さ2丈4尺(7mほど)に及ぶ牛頭天王の祓を飾っただしが大方できあがりました。いっぽうで8日には、大がかりなだしや屋台を作って、川岸(呉服を着せた人形)、浜宿町(人形つかいの芝居だし)、上仲町(踊屋台)もまた先頭に立ちたいと主張しはじめました。祭礼前日の9日夕方、八日市場町は、完成しただしを町内で引き回しました。先頭争いの喧嘩になりかねない事態となってきましたが、10日の浜降り行事のさいには、各町はだしや屋台を動かさず、祭事は神輿のみにて夜5ツ半時(午後9時頃)に終えました。

11日、名主・組頭の村役人では、この紛争が解決できなかったようで、それぞれ名主後見であった本宿組の忠敬翁と濱宿組の永澤次郎右衛門とが仲裁に乗り出しました。そこでは、伊能・永澤両家で係属する各町へ神輿行列の場へ練物を引き出さないように説得交渉することになり、忠敬翁は八日市場町を、永澤家は川岸と濱宿町を説き伏せることになりました。八日市場町は忠敬翁の説得を受け入れて自粛したにもかかわらず、永澤家側が担当した濱宿町と川岸町は練物を神輿の御旅所まで引き出しました。八日市場町や本宿組の各町は憤慨して忠敬翁に詰問し、上仲町・下仲町・荒久町も屋台やだしを引き出し、殺人も起きかねない一触即発の緊張した事態に立ち至りました。そのような緊迫した危機状況から、八日市場町ではだしを取り潰し、その後、濱宿町と川岸も御旅所から退去し、12日の祇園祭礼は、だしや屋台が出ない神輿巡行のみとなり、危機は回避されました。しかし、忠敬翁は本宿組系列の各町への申し訳のため、親類であった永澤家と一時的ではありましたが、義絶することになったのです。

 

○祭礼の定式化

翌明和7年には、だしや屋台の練物行列の順番の問題に加えて、さらに本宿組内の「町(町内)」と村役人の間で紛争も起こります。5月には各町で、祇園祭礼の飾り物の相談が進んでいました。しかし6月に入ると、本宿組名主が、祭礼の指図に従わない上仲町・下仲町・橋元町の町行司を幕府に訴えると主張しました。これらの紛争に勝徳寺と清浄院が仲裁に動きますが解決せず、さらに濱宿組の村役人、新宿側の下宿の伊能平右衛門、そして忠敬翁たちも加わり、事態は好転していきます。神輿行列に付属する練物の順番をめぐる問題については、ようやく浜降り祭事の当番を務める忠敬翁の宅で、籤で順番を決めることになりました。その結果、先頭は上寺宿、下仲町、濱宿、田宿、上仲町、八日市場、川岸、橋元町、荒久町、下寺宿ということになりました。

また神輿行列のルートについても、御旅所から上寺宿、下寺宿、八日市場、前原、仁井宿、荒久、濱宿、川岸、橋元、田宿、上仲町、下仲町の順で巡行することが決まりました。このようにして、支配権力に依存しないで祭礼の定式化が図られ、騒動の自治的な解決が図られていったのです。

(酒 井 右 二)

<参考文献>

佐原市教育委員会『佐原山車祭調査報告書』2001年

宇野功一「近世在郷町における祭礼の成立と展開」(『国立歴史民俗博物館研究報告第一二四集 都市の地域特性の形成と展開過程Ⅱ』2005年刊)

佐原古文書学習会『祇園一条書抜―近世佐原本宿祭礼の記録』 2018年