このシリーズを終わるに当たって今回は、忠敬翁の佐原での諸活動とその後半生で全国測量を達成した偉大な業績との関わり、正確な日本地図を作成した文化業績と在方町佐原の文化的な特質との関わりをみていきたいとおもいます。

○在方町佐原で培われた力量

これまで15回にわたって述べてきたように、在方町という支配側に依存できない場で、忠敬翁は多様な利害の異なる人々や集団を自治的に調整しながら統率し、地域経営の力量や見識を培っていきました。忠敬翁は地域指導者として佐原に多大な功績を残していますが、反面からみれば、忠敬翁の人格形成は在方町の佐原によって鍛え上げられたともいえるでしょう。

忠敬は後半生の全国測量において長期間引き連れた測量隊は、内弟子、幕府役人など、身分や立場が異なる人々で混成された集団であり、また現地の領主や村との折衝などでは問題化し事件となったこともありました。利害の異なる人々との交渉・調整を経ながら測量を実現していくことは、翁にとって克服しなければならない重要な課題でした。佐原で培った自治的な地域経営者として力量が、その事業の達成に大いに役立っていたとおもわれます。

 

○伊能図の特色

伊能図中図 富士山

図1 伊能図中図 富士山付近(伊能忠敬記念館蔵)

このホームページの星埜由尚「佐原の伊能忠敬」でも述べられているように、忠敬翁は佐原時代に在来的な測量技術は習得していました。導線法を用いて地点間の正確な方位と距離を計測して繋ぎ、海岸線を描きました。しかし、長い距離を繋いでいけば誤差が生じてきますので、交会法を用い、遠隔地点の山などを測って補正を加えていきました。図1は富士山付近の伊能中図です。ここでも、富士山と各測量地点が朱線で結ばれていますが、交会法が用いられていることが分かります。このような在来的な測量技法を用いたのですが、伊能図の正確さは、図2で示した「わんか羅鍼(杖先方位盤)」などの極めて精巧な道具を特注で制作させ、それを用いて驚異的な頻度で測量したことにありました。そして、それまでの日本全図は各地で個々につくられた村絵図・国絵図などを寄せ集めて集成されたものでしたが、伊能図の正確さの理由には、忠敬翁が率いたひとつの測量隊が統一的な方法で全国を実地に測量したことにもありました。

 

わんか

図2 わんか羅鍼(杖先方位盤)(伊能忠敬記念館蔵)

 

さらに、伊能図でもっとも注目しなければならないのは、経線と緯線が描かれていることです。図1では富士山頂を南北に経線が、それと交差して下部に緯線が黒色で描かれています。測量隊は昼は在来的な測地技法で地上の測量を行い、夜は各地点で天体観測をして緯度や経度を記録していきました。忠敬翁は、ケプラーの楕円軌道説など当時の先端的な西欧天文学理論を理解していた高橋至時に学び、各測量地点を地球上に位置づけて補正を加え、極めて正確な日本全図を作成したのでした。日本全体という広大な範囲で補正をするには、富士山の高さではなく、北極星の高度から位置づければ飛躍的に正確になるわけです。クロノメーターが登場していない段階では、経度に若干の誤差があるものの、伊能図はその正確さから明治期に入っても利用されていきました。

 

○忠敬翁の業績と在方町文化の特質

忠敬翁の全国測量は17年に及び、測量距離は4万キロメートル、その昼夜の測量・観測回数は6万回に達しました。老境に入った忠敬翁の根気と持続する志には驚嘆するばかりです。その業績は、洋学の理論的な面を進展させたわけではありません。当時の先端的な西欧天文学理論を理解して、それを地図作成の方法に接合して応用し、正確な日本全図を作成した実用の面にありました。このような実学的な視点は、在方町の商人として過ごした経験から生み出されたものと考えられます。

佐原の同族伊能家で一世代上の楫取(伊能)魚彦(かとりなひこ)は、賀茂真淵の門人となり、忠敬翁と同様に隠居後江戸に出て和学者となり、最初の古語用例辞典にあたる『古言梯』を刊行し、それは明治期になっても続刊されていきます。学問的には晩学で本居宣長や村田春海などには及びませんが、真淵亡き後の県居門を受け継ぎ、明治期まで通用する実用的な辞典を作成した業績は高く評価されています。

清宮年表表紙年表

図3 清宮秀堅像と『新撰年表』(清宮家蔵)

また、忠敬翁より後、その姻族であった清宮秀堅(せいみやひでかた)は、生涯佐原に居を据えて、家業の傍ら天保期には文化活動を本格化させ、地域課題に応える独自の視点で、下総の一国地誌である『下総国旧事考』を著作しています。さらに、ぺリー来航後の外圧が深まるなかで、日本と中国の事項に西洋の事項も並列して記載した初の年表を『新撰年表』と題して刊行し、その後も増補され続けて昭和戦前期までロングセラーとなりました。

このように在方町佐原の文化的な特質は、先端的な学問を実用の地平まで下ろして活用し、広く国民的な文化として普及させていく点にあったといえるでしょう。日本の近代文化は、文明開化に代表されるように上から西洋文化を導入する面が主流になっていきます。しかし、伊能忠敬翁の文化業績も含めて、18世紀後半期から19世紀の在方町文化は、在来的な近代国民文化形成を牽引するものであったといえましょう。

○お わ り に

幕藩制解体期の地域変動に立ち向かった地域指導者は、忠敬翁ばかりではないでしょう。また、地域の課題に根差して文化活動を展開した地域文人は全国に広がっていました。今日、新自由主義が地域の隅々まで席巻し、それに加えて超少子高齢化が進行し、地域崩壊の危機が各地で深まり、地域おこしの動きが顕著になっています。それぞれの地域で地域指導者たちの果たした歴史的な役割や文化的な事績を探っていくことは、地域おこしの方策を考える上で今日的な意義も大きいものとおもわれます。

(酒 井 右 二)

<参考文献>

星埜由尚『伊能忠敬』山川出版社2010年

小島一仁『伊能忠敬』三省堂選書1978年

藤田覚「伊能忠敬と大地測量の技術者たち」

(『講座日本技術の社会史』別巻1〈人物編 近世〉日本評論社1986年刊)

酒井右二「在方町佐原からみた近世地域文化試論」(『地方史研究』345号2010年)