近世の佐原は、第7回~第10回で述べたように、他国から、また近在から商工業者や奉公人たちが多数入り込んで、町場化が進んできましたが、支配行政上はあくまでも「佐原村」で、「佐原町」ではありませんでした。18世紀の後半、忠敬翁が佐原に入婿する前後の時期は、地域社会のありようも大きな転換点にありました。今回は、その変容する様相をみていきたいと思います。

図 延享 2(1745)年 佐原村絵図 部分

図 延享 2(1745)年 佐原村絵図 部分(伊能三郎右衛門家文書より作成)

○佐原村の村組と村役人

佐原村は、村方支配に編制されており、行政的な村組として五組に分かれていました。町の中央を北上する川(現 小野川、当時は「佐原川」)を挟んで右岸にある本宿側の村組は、本宿組・濱宿組・仁井宿組の3組で、また左岸にある新宿は、下宿組・上宿組の2組で構成されていました。各村組には、農村の場合と同じように、名主・組頭・百姓代の村方三役がおかれ、検地帳に土地を登録された百姓を基盤として村政が運営されていました。前にも述べたように忠敬翁が当主であった伊能三郎右衛門家は、本宿組の名主を代々務めていました。また浜宿組では、永澤次郎右衛門家が代々名主を務める豪家でした。

○村方騒動と村役人就任

けれども18世紀の中頃、佐原が都市的な性格をしだいに強めていくなかで、それまでの村政運営のやりかたに問題が生じてくるようになりました。

元文5(1740)年の下宿組では、名主就任をめぐって、伊能茂左衛門と同権之丞とを推す勢力の間で、村役人の不正をめぐって係争がおき、村方騒動が断続しました。そのような状況のなか、宝暦11(1761)年、佐原村全体の村法が定められました。そこでは、村役人の就任について、「村役人は古来から続く由緒のある百姓から選ぶべきだが、それが実現できないときは入札によって選出する」と定めています。副次的ですが、選挙で村役人を選出する方法を打ち出してきているのです。

じっさいに本宿組の動向をみていくと、前述したように、名主は代々伊能三郎右衛門家が世襲していました。けれども、忠敬翁が入婿する前には、同家が当主不在ということもあって、名主に就任していません。そして、宝暦9(1759)年、先の名主宇右衛門が退役したとき、七郎右衛門・八郎兵衛ら四人が一年の短期輪番制で名主を交替で務めることが決定されました。またその報告文書には、村役人の所持地の持高が以下のように記されています。

先名主  宇右衛門  7石1斗余         先組頭  治左衛門  1石8斗余

名主   七郎右衛門  7石3斗余          組頭    藤左衛門  2石6斗余

組頭    伝右衛門  3石余

一般的な百姓の持高は、5石から10石の間で、名主は20石以上がふつうです。佐原村の場合は町場化が進んできていますので、田畑の所持高だけで経営規模は分かりませんが、この時期伊能三郎衛門家の土地所持高は100石を超える規模になっています。それと比べても、圧倒的に持高が少ない、10石にも満たない者の中から名主が登場してきているのです。組頭にいたっては、1石から3石の者が就任しています。持高のきわめて小さい者でも組頭に就任できるようになっていたのです。

このように、本宿組では伊能三郎右衛門家のような旧来の豪家から下降し、持高の低い一般の層から村役人が就任するようになっています。すなわち持高の小さな者でも、商工業を導入して経営を拡大し、村役人になる者も登場してきたのです。そして旧来の豪家のなかでこの伊能三郎右衛門家と永澤次郎右衛門家は、「名主上座」「村方後見」「取締役」と称して名主の上位に立って後見し、支配側との取り次ぎを行う立場になっていきます。忠敬翁も本宿組の名主を務めた後、佐原村全体の「村方後見」となっていきました。

○「町(町内)」の成立

一般の村は、前述のように土地を持つ「百姓」身分を基盤として村が成立していました。城下町や三都(江戸・大坂・京都)などは、「町人」身分を基盤として編制されていました。しかし町場化が進んでも佐原村は、土地を持つ「百姓」と、土地を持たない「水呑」の身分で編制されていました。

忠敬翁が伊能三郎右衛門家の当主であった頃の明和5(1768)年には、佐原村の総戸数1201軒の内、879軒が土地を持たない「水呑」身分の住人でした。この中には小作農民もいましたが、多くの移住してきた商工業者や奉公人たちがいました。このような状況の中では、支配側が設定した従来の村の行政制度では大きな矛盾が生じてきます。土地を持たない住民をも編成した新しい組織が必要となり、「町(町内)」という自治的な住民組織が成立してきたとみられます。

明和6年の本宿祭礼に当たって触れ出された廻状には、表1に示す「町(町内)」が10か町がありました。このような「町(町内)」組織と、旧来からの統治組織でもある村組との関係をみていくと、天保7(1836)年頃までの村組と「町(町内)」組織とのおおよその対応関係は、表2のように整理されます。

表1 明和6(1769)年 本宿の「町(町内)」

表1 明和6(1769)年 本宿の「町(町内)」

(明和六年「伊能豊秋日記」より)

表2 天保7(1836)年頃までの村組と管轄「町(町内)」の対応

表2 天保7(1836)年頃までの村組と管轄「町(町内)」の対応

(酒井一輔「近世後期関東在方町における町組織の運営と機能」などを参考にして作成)

各「町(町内)」では、「町代」「町行司(事)」などの役職者が存在しており、また各「町(町内)」を横断して「惣町」組織も結成されており、制度としての「村組」のなかに、「町(町内)」という自生的に成立してきた住民組織を組み込み、独自の社会組織が成立してきたとみられます。

(酒 井 右 二)

<参考文献>

酒井右二『近世在方町佐原の歴史的特性』香取市水道建設部都市計画課2016年

酒井一輔「近世後期関東在方町における町組織の運営と機能」(『千葉史学』第64号2014年)

酒井右二「古文書を読んでみよう 第五回 近世佐原の村と町の運営」(『佐原の歴史』第5号2005年)