今回は、忠敬翁たちが幕府勘定奉行と対峙して交渉しながら支配を空洞化し、河岸の「自由」を確保していった様相をみていきましょう。翁はこの間の交渉記録を、下に掲げた冊子にまとめて残しています。

安永 3(1774)年 佐原邑河岸一件(伊能忠敬記念館 J31)

安永 3(1774)年 佐原邑河岸一件   (伊能忠敬記念館 J31)

 

○田沼政権の政策

近世前期の物流は、年貢米などの領主の商品が大半でしたが、18世紀の中頃から民間の商品経済が発達してくると、田沼時代には、これに対応した諸政策が打ち出されてきます。今日の輸送はトラックが中心ですが、近世では大量に安価に物資を輸送できる舟運が主要な輸送手段でした。田沼政権はこれに着目して、そこから新たな税収基盤を拡大しようとしてきました。すなわち、水上交通のターミナルである河岸を拠点に、その中核的な業務を担う河岸問屋に営業の独占権を公認する問屋株を設定し、地域の流通を統制すると共に、運上や冥加金(現在の営業税に相当)をかけて税の増収を図ろうとしました。

 

○佐原河岸の様相

旧来から佐原河岸には、荷主と船持との仲介業務を担う河岸問屋はいませんでした。しかし、この前後には、河岸問屋を出願する者が登場していました。宝暦6(1756)年には、下宿組甚蔵が米100俵につき200文の口銭徴収で、同9年には浜宿組五兵衛が金15両の運上で、明和2(1765)年には長竿村(常陸国河内郡)内蔵之介が10年間で50両の運上と橋の修繕維持を見返りに出願しました。さらに、同7年には伊能三郎右衛門家でかつて船頭奉公をしていた下宿組の船持権三郎が、年貢米輸送、荷のない船への差配、冥加金10両の上納を条件に、口銭取立を出願していました。しかし、いずれも村側からは、一貫して反対され、河岸問屋特権が固定化されることはありませんでした。河岸問屋を介在させないで、荷主と船主との間で自由に積載の直接取引をする「荷主・船持の相対積み」原則が保持されていました。

 

○忠敬翁らの対応

明和8(1771)年から幕府勘定奉行の河岸問屋吟味が開始され、伊能三郎右衛門家の当主でまだ27歳の忠敬らが交渉に当たりました。当初は河岸問屋がいないことを主張し、運上の免除を求めました。それが受け入れられないと、次善の策として村請の河岸として誓願しましたが、これも受け入れられませんでした。最終的に、伊能三郎右衛門家と同茂左衛門家が河岸問屋株をもち、運上は永1貫500文で引請けることとなりました。永とは永楽銭の略称で、金1両が永1貫文=1000文で計算された額です。

しかし、佐原村の内部では河岸問屋としての実態はなく、積荷に口銭を徴収することはありませんでした。両伊能家は幕府に対する運上納入の窓口でしかなく、じっさいは、江戸から佐原河岸へ運ばれる下り荷の荷主たちの「商人仲間」が運上永250文を、その残りは、上り荷やその他の荷主となる「商人小前」を含んで村内で分割し、負担する方式でした。

 

○佐原河岸の「自由」

このように忠敬翁らの働きにより、佐原河岸では河岸問屋は名目上の存在でしかなく、村内では「荷主・船持の相対積み」の原則が保持され、積荷に口銭の徴収はせず、河岸問屋業務は空洞化させていきました。運送の「自由」を担保し、商物の荷主である小商人や船持へ公益性を広げるものであったし、集荷の経費となってしまう口銭をなくして、他河岸に対して佐原河岸の競争力を維持するものでもありました。在方町佐原の繁栄に、このことも重要な要件となっていたといえましょう。

(酒 井 右 二)

<参考文献>

川名 登『近世日本水運史の研究』雄山閣1984年

小島一仁『伊能忠敬』三省堂選書1978年

永原健彦「河岸問屋株をめぐる諸動向―下総国佐原村を事例として―」(近世史研究会『論集きんせい』第26号2004年)

酒井右二「木下河岸問屋吉岡家と佐原の伊能忠敬―近世の地域間交流と河岸場運営の変容」(印西市教育委員会『印西の歴史』第10号2017年)