第6回「忠敬翁の経済感覚」でも、窮民の救済を第一に考えて、自家の方針としていたことを示しました。

今回は窮民救済の具体的な様相をすこし詳しくみていくと共に、地域社会の中で格差が拡大し、小百姓の家数が減少していく状況に対して、どのような対応策を考えていたかを提示していきましょう。

前にも示しましたが、伊能家の功績を記録した「旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)」には、窮民の救済や地域に貢献した様相が記述されています。

旌門金鏡類録表紙(『千葉縣史料 近世篇 下総國 上』)

旌門金鏡類録表紙(『千葉縣史料 近世篇 下総國 上』)

旌門金鏡類録 忠敬翁の救済活動記述部分

旌門金鏡類録 忠敬翁の救済活動記述部分

 

○火災・水害・飢饉での施行

まず火災についてみていくと、安永4(1775)年、佐原の八日市場から出火した火事では、類焼した家200軒ほどへ炊き出しを行い、一軒につき銭200~500文の支援金も出したと伝えられています。また、天明4(1784)年、中町(上仲町カ)からの出火では、類焼した35軒ほどに味噌や香物を付けて炊き出しを行い、銭500文ずつ提供したとあります。さらに天明7年、荒久からの出火では類焼した30軒ほどへ、つづく本川岸からの出火では8~9軒へそれぞれ炊き出しと銭500~700文を提供したと記されています。

凶作や水害にあたっては、明和3(1766)年の凶作では、米・銭の援助ばかりでなく、村で行う堤防普請にも助成しました。天明元(1781)年7月の洪水では、支配側からの救済金が出されましたが、それでは足らず、伊能家側から米・銭を補給し、種籾や扶持米を無利息で貸し与えて百姓の経営が維持できるように図りました。天明3年、浅間山噴火で凶作となり、米穀が高騰して品薄となりました。そのようなときでも、忠敬翁は佐原村ばかりでなく近在の村にも救い米を出したといいます。

そして天明6~7年、この地域は大洪水となり、また全国的な大飢饉となっていました。各地で飢えた人々は、食料を求めて流民となったり、打ちこわしをかけたり、不穏な状況が広がっていました。忠敬翁は、佐原村においては各町内へ世話人を置き、全戸数約1500軒の内1300軒余へ、1人当たり米1升または銭100文を7~8回にわたって施行しました。そのうえ、近在の村々の飢人にまで、救済活動を広げていきました。そして、百姓たちが青田刈りをしないように、新穀が稔るまでの間、夫食金などを提供していったといいます。また、村内や近在の搗米商人へは酒造用の米を安価に売り渡して、地域に出回る飯米が高騰しないように抑えました。さらに水害で伝染病が広がらないように薬を配布したり、長患いの病人や貧窮民には特に配慮した支援をしたとあります。

 

○救済基金の積立―潰(つぶ)れ百姓の再建策

このように忠敬翁は毎度の水害や火災に、その都度、救援の米穀や資金を提供していきましたが、多発する飢饉や水害には、構造的な問題が背景にあったのです。この時期、商品経済の発展から貧富の差が広がり、土地を手放して経営基盤を減退させていく百姓が増大してきたことが問題化していました。いっぽうで領主側も財政赤字でこれまでのような「お救い」政策も十分にできなくなっていました。その結果、経営が成り立たず潰れていく小百姓たちが構造的に増えてきたのです。このような状況の中で、村側では、自前で何らかの対策をとる必要性が意識されてきたとみられます。

天明3年、領主の側は利根川堤防工事の普請を行いました。このとき名主を務めていた忠敬翁は佐原村が担当した工事の指揮を執りましたが、資材を公定価格より安価に仕入れて調達し、工事に当たった百姓・水呑の労賃を増やし、さらに剰余金も生み出しました。その剰余金は、今後の村側が自費で行う工事資金にあてたり、また凶作に備えて「永久相続金」と称する基金としました。そして、それを低利で貸し付けて経営危機にある百姓ヘ支援すると共に、利息金も繰り入れて積立て金額を増加させ、恒常的に財源を確保しようと図りました。

このようなやり方は、次の当主となる景敬の代にも受け継がれていきました。「組内養育のための積金」というやり方でした。伊能家では自費を100両くらいまで投じて、質流れとなった田畑を近村にまで範囲を広げて手に入れ、村組持ちの田畑としました。そして、その土地を村内の重立った者へ管理を委ねました。それらの田畑は村内の零細農民に耕作させて経営の補填をさせると共に、毎年受け取る小作料から生み出される利得は積み上げられていくことになります。その積立金を財源として潰れてしまった百姓を再び取立て、家数を増やし、耕地の荒廃状況も打開しようと図ったものでした。

このように忠敬翁ら佐原の地域指導層は、依存できなくなった支配側に頼らず、地域の側で自主的な財源を創り出し、自らの手で地域社会の構造的な経営維持を図ろうとしていたのです。19世紀に入ると二宮尊徳や大原幽学たちが、全国的に著名な農村の自立更生運動を展開させていきます。忠敬翁たちのこのような地域経営の構想はそれよりも早く、18世紀後期にはじまる先進的な事例だとみることができます。

(酒 井 右 二)

<参考文献>

『千葉縣史料 近世篇 下総國 上』千葉県 1958年

小島一仁『伊能忠敬』三省堂選書1978年