忠敬翁の家意識と個

○伊能三郎右衛門家の当主

伊能忠敬は、宝暦12(1762)年、数え年18歳で伊能家に入り婿となり、寛政6(1794)年、50歳で家督を長男景敬へ譲りました。翌年江戸深川黒江町へ移住して幕府天文方の高橋至時へ入門し、寛政12(1800)年、56歳のとき蝦夷地測量に着手して、以後15年間にわたって全国測量を展開し、正確な伊能図を作成していきました。忠敬の前半生の足掛け33年間は、佐原の豪家である伊能三郎右衛門家の当主として過ごしていたのです。

翁の略歴については、第1回に掲載していますのでそちらを参照していただきたいのですが、出生した小関家(山辺郡小関村)、父の実家である神保家(武射郡小堤村)、入婿の前にいったん養子分となる平山家(香取郡南中村)、忠敬の関係するいずれの家も、共通して戦国時代の土豪・地侍(兼業的な武士)の系譜を持つ家でした。戦国大名北条氏支配地域の土豪・地侍は、天正18(1590)年、豊臣秀吉の軍勢に制圧されてしまいます。そして、秀吉の検地や刀狩りの政策から、兵と農が分離され、近世の身分制社会が編成されていきます。身分は、家を基礎単位として付いてきます。原則的に近世の人びとは家に属し、その家の当主が身分を与えられて社会が編成されていきました。

伊能家など、この地域の土豪・地侍層の多くは、北条氏側だったため下降して百姓身分となってしまいます。そのような家々では、近世を通じて「世が世であれば武士であった」という意識が、多く潜在していたようです。土豪・地侍の系譜をもつこれらの家々は、近世になっても単なる一村の名主クラスではなく、村を超えた広域的地域の頂点に立つ家々です。そのようなネットワークのなかで、忠敬の婚姻関係も形成されてきたといえましょう。

伊能忠敬旧宅

伊能忠敬旧宅

○忠敬翁の述懐―文化10年4月自筆書簡から

忠敬翁は、伊能家当主として過ごした前半生をどのように想っていたのでしょうか。文化10(1813)年4月27日、九州測量の最中に佐原の実家へ発信した書簡からみていきましょう。下に写真画像を掲げておきますが、前の部分は省略してあります。

差出人の所に「東河翁」とありますが、「東河」は忠敬の雅号です。宛所に「妙薫御坊」とあるのは、娘の稲です。稲は勘当された婿の盛右衛門が亡くなった後、実家に戻り、剃髪して「妙薫」と名乗りました。この書簡の3ヶ月後に、佐原の伊能家では嫡男の景敬が病死しており、妙薫に家内の切り盛りの期待が高まっている時期のものと思われます。

書簡の内容をみていきましょう。忠敬翁は、次のようにいいます。

私は幼年の頃から「高名・出世」を好んだが、佐原に養子となるに及んで、好んだ学問も止め、産業を第一にした。そして先祖の格言を守り、遺命にしたがって窮民も救済し、その功績で名声も上がり、当主を退くのは天の道理だと江戸に隠居をした。そうしたら、またまた未だかつてない日本全体の測量という御用を命じられ、諸大名の奔走やとりもちで、諸国を遍歴できた。これは、まことにありがたいことだ。これも実に天命と云うべきか、先祖からの礼と徳によるものか、言葉には表せないものだ。(後略)

忠敬翁が幼年時からもっていた身上を上げ、名声を求める意識は、豪家に潜在した意識の表れだともいえるでしょう。翁はそれを学問によって実現しようとしていましたが、伊能家の当主となってそれを後景に置き、当家のエートスを自分のものとしてその実現を図っていったといいます。その点では、近世人としての生き方を全うしていったといえるでしょう。しかし、そこに止まりませんでした。

隠居後に個としての自己実現を図ろうとする先達は、忠敬翁の周辺にもいました。父の世代に当たる7代当主昌雄は、隠居後江戸に出て能楽・茶・俳諧と風雅な生活を営んでいましたし、同族の茂左衛門家の景良は、隠居後やはり江戸へ出て和学者楫取魚彦として名声を得ていました。忠敬翁は、近世的な家と身分のしがらみの中でこれらの先達の後を追い、家の当主から隠居という立場を得、個としての自由な範囲を広げる生き方を探り、学問によって自己の実現を達成していったといえるでしょう。その意味でこのような生き方は、近代的な個我を模索した動向と捉えることができるのではないでしょうか。                                        (酒 井 右 二)

文化10年4月伊能忠敬自筆書簡(伊能忠敬記念館蔵)

文化10年4月伊能忠敬自筆書簡(伊能忠敬記念館蔵)

<参考文献>

小笠原長和「人間 伊能忠敬」(『伊能忠敬書状 千葉縣史料近世篇文化史料一』千葉県1973年)

酒井右二「伊能忠敬」(『地方史事典』弘文堂1997年)