前回は入り込み商人の動向をみてきましたが、ここでは佐原の商工業の全般的な状況と忠敬翁の地域経済に対する見識をみていきたいと思います。

 

○18世紀前半(化政期)佐原商工人の業態

一族の伊能茂左衛門家では節軒という当主が、18世紀前半(化政期)佐原商工人の業態について記録を残しています。節軒は天保期以降18世紀後半の佐原の町を主導した中心人物ですが、潮来の文人学者の宮本茶村に学び、地域学を深めていった人でもありました。地域指導者としての必要性から、地域の歴史を探究し、18世紀前半の佐原の様相も遡って調査し、記録したものと考えられます。それは、忠敬翁が隠居して江戸に出た頃のものですが、佐原の商工業の全般的な状況をみるうえで有効なので、表にして掲げます。

伊能節軒が記録した化政期佐原商人の業態(伊能茂左衛門家文書「歴代改名証」)

表 伊能節軒が記録した化政期佐原商人の業態(伊能茂左衛門家文書「歴代改名証」)

佐原の旧来からの主要産業は米穀取引で、この時期も穀商人が多くみとめられます。また、前述した酒造、醤油醸造業のほかにも、絞油商人たちもいました。ちなみに伊能家では、天保期には酒造業を廃業し、絞油業に転換することになります。付加価値の高い当時の先端産業であった食品加工業が、このように分厚く展開していました。また、鉄物・荒物・塗物などの器具類、呉服・太物・細物・袋物などの衣料装身具類、饅頭・菓子・焼き芋・茶などの嗜好品、薬種や書物などの文化性を伴う商品、蕎麦・饂飩・銭湯など飲食サービス業、質商などの金融業、というように多様な業種が幅広く展開しています。そのような消費的な商物の中には、煙草や茶にみられるように、周辺地域へ卸売りするばかりでなく、小分けして売る小売りもみられます。また流通路は、江戸ばかりでなく関東周辺地域の下野、さらに東北地方の仙台に広がり、関西でも京都ばかりでなく周辺地域の近江や紀州など、遠隔地域との直接的な取引が展開していた様相もうかがえます。

在方町佐原は、生産された商品を他地域に売り出す拠点であったばかりでなく、消費的な商品を江戸以外の遠隔地域とも直結して取引しており、江戸市場に従属していたとはみられません。18世紀の佐原は、自立的な取引ルートを保持して繁栄していたとみられ、その意味でも「小江戸」ではなく、「江戸優り」と評価してよいでしょう。

 

○忠敬翁の地域経済認識

このような在方町佐原の経済状況を忠敬翁はどのように認識していたのでしょうか。まず、天明4(1784)年忠敬翁が、村役人として同役の永澤次郎右衛門と共に、旗本用人へ宛てた意見書の記載からみていきましょう。その中で忠敬翁たちは、次のように述べています。

・佐原村方商人は大金持ちのように表を飾り、格別に有徳な者があるように見えるが、実は小金持ちが多い。銚子・小見川・土浦辺りの払い米に、元手金なくても入札に参加し、落札後内金を借用して調達する。そしてまた小間物・太物の仕入れに行くなど、小金持ちで年中相応の商売がかなり出来ている。実は米商人でも土蔵をもっている者が少ない。

・醬油醸造・酒造の販路も地売りが中心。 酒造人も奉公人を多く抱え、大金が必要にみえるが、秋の彼岸より30日で造酒して売払い、直ちに二番酒に取り掛かり40日で売払い、同様に寒酒造りに入るなど、元手金を三度も四度も繰り返して回している。

以上のように地域経済情勢を分析し、忠敬翁などの地域指導層は、今後も佐原では小商人でも商売が出来る場としたい、と述べています。

旗本用人宛伊能忠敬等意見書(伊能忠敬記念館蔵1285)

旗本用人宛伊能忠敬等意見書(伊能忠敬記念館蔵1285)

○入り込み商人の評価とその対応

忠敬翁は、入り込んできた商工人たちをどのように評価し、彼らへどのような姿勢で臨んでいたのでしょうか。この意見書の前半では次のように述べています。

・佐原村は年貢や村入用(領主に納める年貢に対して、村の運営にかかる諸経費を百姓たちで割り当てて徴収するもの)が不足がちで、百姓経営ばかりでは成り立たない。佐原は利根川付の村で、江戸との通交も進展し、他国からも商人たちが入り込んで商売をし、旧来の土地持ちの百姓は家屋敷を貸して地代や店賃をとり、小百姓は野菜を作って売りさばき、年貢・村入用も滞りなく納められてきている。

このように、旧来の百姓と入り込み商人が共存する経済の循環を、肯定的に捉えていたのです。

また、「旌門金鏡類録」には、翁が隠居する直前の寛政6(1794)年2月、荒地起返しの見分に出張して来た幕府勘定御奉行柳生主膳正とのやりとりが記録されています。柳生は、佐原は村方であるので、町場が繁盛するほどに諸経費がかかり、百姓たちは貧しくなる。さすれば、商人たちに「町入用」を負担させているのか、と問いました。忠敬翁は、普段の年は、家別割で少額を負担させており、非常時には軒別割で臨時入用を掛けている、と回答しました。柳生は、土地を持たなくても金持ちの商人たちがいるのだから「町役」を賦課するのが筋であろうと述べています。しかし、この後も幕末に至るまで在方町佐原には、城下町や三都(江戸・大坂・京都)のような「町役」や「町入用」は存在しませんでした。

忠敬翁をはじめとして、在方町佐原の地域指導層は、参入障壁を低くして小商人たちでもどんどん入り込んで来やすくし、町場の繁盛を図ろうとしていたとみてよいでしょう。

 

<参考文献>

酒井右二『近世在方町佐原の歴史的特性』香取市水道建設部都市計画課2016年

酒井一輔「近世後期の町場における宅地化と行財政運営の変容-下総国香取郡佐原村を中心に―」(政治経済学・経済史学会『歴史と経済』第236号2017年)

(酒 井 右 二)