忠敬翁が当主であった時期、伊能家の経営は、大きく拡大していきましたが、今回は、書簡などにあらわれた翁の経済感覚や経営意識についてみていきましょう。

 

○消費にも合理性

測量隊には行く先々から贈り物があったようです。文化10(1813)年2月3日、忠敬が九州測量中、平戸城下から娘の妙薫宛に発信されたとみられる書簡には、次のような一節があります。

「もらった三反の芭蕉布があまり良い品ではないから、いくらかお金を払うので、(もっと良い)袴と替えてくれるように、頼んでおいた。」

芭蕉布というのは沖縄や奄美大島の特産の夏物の薄い布ですが、薩摩藩から贈られたものでした。これがよい品ではなかったので、お金を足して必要な袴と取り替えようとしています。消費にも合理的な姿勢が現れています。

 

○理非曲直のけじめに厳格

忠敬翁は厳格な性格であったようですが、飯炊きの清助という奉公人の不正を厳しくチェックしていたことも分かります。年不詳ですが文化 7(1810)年以降の2月16日の書簡によると、その頃、飯米の消費が多くなってきたことに気がつき、飯米帳のチェックをすると、50日で1石ほどの増大がありました。忠敬翁は、清助が外の井戸で米研ぎをすることを理由に米を屋敷外へ持出し、その際に横流ししたことをつきとめます。清助は出奔してしまいますが、後継の奉公人へ対して、米研ぎで屋敷外へ持ち出すことを禁じます。

伊能忠敬

伊能忠敬自筆書簡 第6巻1号 年未詳2月16日

また、親類が屋敷を不正に取得したことについても、以下のように書簡で批判しています。

「横取りや押領をするのは言語道断の事だ。身分や立場の高い低いにかかわりなく、親類とか他人とかによるでもなく、大いに不埒(ふらち)というべきものだ。」

このように、忠敬翁は、何事にもとらわれず、理非曲直のけじめに厳格であったことがわかります。

 

○正直で利他の経営姿勢が天運をよぶ

文化 9(1812)年10月、忠敬翁が九州測量中、筑後柳川から妙薫に宛てて発信されている書状をみていきましょう。その中では、同年6月から利根川大洪水で大凶作、新島領では家作、道具、穀も流失したことを記しています。その被害は天明飢饉の丙午の年(天明 6(1786))よりも難渋していると伝えられていました。天明飢饉の経験と佐原本家の経営方針のあり方について、妙薫に次のようにアドバイスしています。

「本家の財産がどれほど減少しても、窮民を救うべきだ。その代わり旗本領主への貸付金を止め、商物の取引を休止して、質素に五、七年も暮せば、救済金に当てることはできる。…天明5年のときには、大坂から買入れた米や、この地域で買入れた米を過分に持っていたところ、米価安でかなりの損失になっていた。それでも私は決心して米を1俵も売らずに抱え、運を天に任せていた。そうして翌年秋を迎えると、大洪水となったが、窮民へ救済する米を出すこともできたし、米価が暴騰して返って大儲けとなった。」

伊能忠敬

伊能忠敬自筆書簡 第18巻4号 (文化9年)10月13日

忠敬翁は、窮民の救済を第一に考えて、自家の方針としていました。旗本などの領主への貸し付け、商物の取引などは二の次・三の次であり、自分たちは質素に暮らせばよいとしています。私利私欲を廃し、道徳的な経済観念が徹底していたのです。そして、その結果、正直で利他の経営姿勢が天運をよび、大もうけができたと述べています。

 

○伊能家の家風

翌11月8日付けの書簡では、孫の忠誨へ向けて、経営の大原則を次のように総括して述べています。

「何事に付けても我が家の流儀を学び、大いに正直に手強く、常に人の為を考え、質素に倹約に世を渡るように、よくよく言い聞かせるように。親族一同で生計が苦しくなったら、商売筋を止めて質素に暮せばよい。このことは、第一に孫の忠誨のためであり、第二に子孫が長久となるための基である。」

質素・倹約に努め、正直に常に人のためを考えて世を渡るように訓戒しています。伊能家では、祖父の世代の景利が、易経の「積善の家には必ず余慶あり」を引用して訓戒していました。このような道徳的な経済観念が伊能家の家風となり、代々受け継がれていたわけです。

(酒 井 右 二)

<参考文献>

小笠原長和「人間 伊能忠敬」(『伊能忠敬書状 千葉縣史料近世篇文化史料一』千葉県1973年)

酒井右二「元禄・享保期在町上層民の文化活動―下総佐原伊能景利の家政や文化にかかわる記録編纂の検討を中心に―」(『千葉県史研究』第10号別冊 房総の近世1 千葉県2002年)