第5回 伊能家の屋敷と貸家

忠敬翁が当主として過ごした伊能家の旧宅は、今日では国史跡に指定されています。しかし、それは忠敬翁が存生中の伊能家屋敷の全体ではありません。近年、香取市当局によって伊能家旧宅の発掘調査も行われ、新しい知見も得られています。それらも参考にしながら、翁が過ごした当時の伊能家屋敷を検証すると共に、前回みた経営上一定の位置を占めていた貸家の様相を探っていきましょう。

〇伊能家の屋敷図

伊能家には、図1に示した年代不詳の屋敷図(「伊能家図面」)があります。ここには、用水堀の向こうに酒蔵が描かれています。酒造経営が本格化した享保(1720年頃)前後以降のものとみられます。また伊能家には、もう一枚、文政期の屋敷図と文書があります。それは、孫の忠誨が文政 7(1824)年に測量した「居屋敷実測野帳」と下図(「伊能家実測図」)です。その文政7年「伊能家実測図」には、忠誨が建設した天文台が描かれていますが、享保期前後以降の「伊能家図面」(図1参照)に記載された隠居家屋(用水堀西側南端)がありません。しかしそれ以外は、ほぼ一致しています。忠敬が居住した頃の伊能家の屋敷は、この享保期前後以降の「伊能家図面」(図1参照)の屋敷図から隠居屋敷を除外して、イメージすれば良いでしょう。

享保期前後以降の「伊能家図面」(伊能忠敬記念館C(1)-43)

図1 享保期前後以降の「伊能家図面」(伊能忠敬記念館C(1)-43)

 

この「伊能家図面」と現在の国史跡となっている伊能忠敬旧宅にある家屋と比べてみると、表門と店、さらに用水堀の西側で最も南側の蔵が現存しています。この蔵は、宮内秀雄・宮内敏著『文化の開拓者伊能忠敬翁』(私家版2005年刊)に掲載される伊能家屋敷図の写には、「御用蔵」と注記されています。じっさい当家の村政に関わる大量の古文書は、新しい伊能忠敬記念館が建設されるまで、ここに保存されていました。当時の母屋は現存の母屋とは異なり、忠誨没後、家督が固定しないうち、天保 8(1837)年、取り壊されたとみられています。

この屋敷図は、自家用で使用したものは彩色が施され、貸家や貸土蔵は、無色で示されています。現在では、表門の脇にあった自家用の土蔵は消失していますが、その北側の貸土蔵は残っています。また香取道沿いの貸家が記されていますが、続いてこれらについてみていきましょう。

 

○ 伊能家の貸家

前回みたように、寛政 6(1794)年店卸目録帳では、農業・地主経営をも含んだ金額ですが、「田徳・店賃」142両と計上されていました。その貸家経営ですが、忠敬翁が、寛政元(1789)年7月に記録した「表長屋貸地麁絵図」(伊能忠敬記念館122-7)から、香取道沿いと、小野川沿いに表門に至る貸家・貸地の様子がわかります。それをトレースして作図したものを図2に示します(但し、縦書きを横書きに改めたり、漢数字を簡易な文字に改めたりした)。

寛政元(1789)年「表長屋貸地麁絵図」(伊能忠敬記念館122-7)

図2 寛政元(1789)年「表長屋貸地麁絵図」(伊能忠敬記念館122-7)

伊能家の屋敷地は、小野川と香取道が交差し、水路と陸路を結ぶ佐原で最も繁華な地点にありました。この麁絵図には、西から東へ延びる香取道に沿って、現在の忠敬橋から佐原街並み交流館の手前に至る一棟の長大な長屋が示されています。ここでは、間口と奥行き、店借人と金額が記されています。金額はおそらく年間の店賃だとみられます。表通りの間口4間・奥行き8間の店賃は7両で、坪単価は0.22両となります。また、裏店は、坪単価0.08両程となります。江戸の状況をみると、やや時期が下がりますが文政期の根津門前町長屋では、表通りの2階屋で坪単価0.3~0.55両、裏店で0.13両程になります。江戸の中心街と比べると、やや下がりますが、かなり高額な店賃です。

その分だけ佐原の街並みが、収益性の上がる都市的な地所となっていたといえましょう。棟割長屋の表店の店賃で、計金73両2分35匁となります。それ以外で計金19両1分85匁5分です。また先に見た屋敷図には、本宅の敷地外の西側と南側に5軒の貸家も描かれていますが、寛政6年の「田徳・店賃」で142両ですので、店賃収入の大半は、棟割長屋の表店にあったといえるでしょう。

この麁絵図に記載のある店や蔵の賃借人のうち、「五十嵐」と「上(植)田屋」については、多少なりとも来歴がわかります。両名共に他所から佐原に入り込んだ商人で、このことについては後の回でも取り上げることになりますが、簡潔にふれておきたいと思います。「五十嵐」は、多古藩の御用商人も務めていた多古の五十嵐家から分家した治兵衛とみられます。図1で見た伊能家の屋敷図と照合すると、現存する貸蔵に当たる部分を借用しています。米穀の積み下ろしに好適な小野川沿いに面した蔵を、借用していたものと考えられます。

「上田屋」は、「植田屋」とも表記される近江商人の出身で、銚子の本店から宝暦年間に出店してきました。業態は、江戸菓子や茶、荒物や細物(竹皮などを編んだ細かいもの)を取り扱ったと伝えられています。「植田屋」の表店は西側に移動しますが、今日も同様の場所で荒物・細物などを扱う商人として存続しています。

伊能家では、このような他所から来た商人たちが営業できる棟割長屋を設けて町場の繁栄を図ると共に、かれらに店貸して得た表店が店賃収益の大半を占めていたのです。

(酒 井 右 二)

<参考文献>

香取市教育委員会(川口 康執筆)『伊能忠敬旧宅跡発掘調査概報』香取市建設部都市計画課2007年

竹内誠・加藤貴ほか『東京都の歴史』山川出版社1997年

酒井右二『近世在方町佐原の歴史的特性』香取市水道建設部都市計画課2016年